長文のつぶやき

物質的な<見た目の>豊かさが、決して幸せをもたらすとは限らない、と
多くの人が気づき、精神的な豊かさ、あるいは拠り所を求めて
パワーストーン」「パワースポット」などスピリチュアルな物や場所に
関心を寄せる人が増えてきた。

誰でも「偶然」という言葉では片づけられない不思議な経験を
一度や二度或いはそれ以上経験するとき、超自然的存在との見えない
つながりを感じるだろう。

そのような感覚(霊性スピリチュアリティ)は、「科学的」に証明出来ないもの・ことが多く、
変な誤解を招くこともあるが
個人差はあれど、人に本来原始的に備わる「能力」の一部だと思う。それが全く自分で意識出来ない人もいれば、日常的にその感覚と「付き合って」いる人もいる。

さて、この「能力/感受性」について、ある人は
多くの人の思い(思念)がメディア等の影響を受けて、先鋭化して
簡単に集中しやすくなることの危機感を訴えている。

無意識の悪意って、なんだかとても怖い・・・

多くの人の無意識の「悪意・敵意・嫌悪」などがどこか一点に
集中するということは好ましい状況とはいえない。

人の気持ちや感情という物は目に見えないものであっても
「なんとなく」伝播していくものだと思う。そこには
無益な対立を避けるための「バランス感覚」のようなものが
同時に存在していてほしいなぁ・・・などと祈るような気持ちでそう願う。


人の霊性を正しい道に進ませる力は宗教にも政治にも無いようだ、と
言った人もいる。
政治には今や期待してる人なんてほとんどいないと思うけど
「宗教にも」という点で、とても示唆に富む言葉だ。

お寺にいながらそれに同意してしまうことに、多少の引け目は感じるけど
私もそう思う・・・

飽食で、ある程度法の下で個人が保護されて、情報が瞬時に共有出来る
現代において、宗教の力は弱すぎる(強すぎても困るけど)

先日、うちのお寺で大きな行事があり、私達「お寺側」と檀家さん側とで
信頼を築き挙げた上での素晴らしい式を円成出来たのに
それでも私は宗教の持つ潜在的な力、存在感の危うさを感じている。。。
 
「寺奥」ではなく、個人として感じていること・・・