会ってきた
夫が修学旅行で家を空ける、と知り「これはチャンス!」と
私もお泊まりすることにした。
というのは、先日カウンセラーに言われたこの言葉
そこに行ってみたら?ということだったが
その後カウンセラーとのメールのやりとりの中で、私が不動明王に呼ばれている、と言われた。
どういうことなのかよく分からないけど呼んでくれているのなら、と
思っていたときに巡ってきたこの機会、せっかくなので思い切って行ってみることにした。
桜の時期が終わったちょうど今、吉野山近くに宿を取り
観光客の少ない早朝、修験道の寺の朝のお勤め(朝課:勤行)を拝見して
早朝の吉野の山々
実はこの不動明王、知る人ぞ知る『最強のお不動さん』らしい。
会いに行くべき不動明王はこの方で良いのか?
私なんかが行っても良いのだろうか?と不安になったが、とりあえず車を走らせた。
どこまで行っても杉木立
急な坂や狭くて細い道、急カーブが連続し
ほとんど人家もなく人の気配もない山の中、方向音痴で小心者の私は
一人で走るのはとても心細く、このまま迷子になってしまったらどうしよう・・・
どうぞ私をお導き下さい、と心の中で何度も祈った。
やっと見つけた!と思った瞬間、カーステレオからエンヤのサンタマリアの声が。
荘厳で宗教的な響き、愛と信仰の気持ちがいっぱい膨らむような音楽と雰囲気は
偶然にしては出来すぎなくらいその時の心境によく合っていた。
ホントはここではなく少し先の展望台に車を停めるべきだった
閼伽井不動明王
「呼ばれていても・・・せっかくそこに行っても私には何も感じることが出来なかったら・・・」とカウンセラーに不安を打ち明けると
「何も感じることがなくても大丈夫よ~」と返事があったことを思い出し、
恐る恐る不動明王さんに、自分が何者でどこから来たか、ご縁を頂いたことを感謝します、というようなことを申し上げ30分ほどそこで過ごした。
それにしてもどうして私は呼ばれたんだろう?
どうしてこのお不動さんはこんなところにあるんだろう?
とてもリアルで怖い顔・・・だけど、この「像」は誰かが作ったもので
本質(不動明王)というか何かの存在がここにあるからこそ
この場に像を設置したのだろう。
目には見えないけどきっとここにあるであろう「気」を頂いて帰ろうと思った。
(と言っても私がそう思ってるだけなんだけど)
とにかく不動明王に会えて良かった、と思いながら帰路についた。
帰りの道で、このお不動さんは怖い顔をしているけど守って下さる優しいかた、と
何かに書いてあったのを思いだし、
そういえばなんとなく「お兄ちゃん」みたいな感じだな、と思った瞬間
結婚前の夫が、私の兄だと名乗ったという夢の声の主を思い出した。
(私には兄はいない)
私がピンチの時や凹んでいるときに、いきなり慰めの言葉が浮かんできたりするのは
不動明王のところに行きなさいとイメージをくれた「存在」だったのかな・・・
ダメな私をいつも見守り励ましてくれる優しい兄のような存在を
子どもの頃からなんとなく感じていたので、
もしかして、そうだったのかな。