雑感

昨日は、「お寺の奥さん研修会&特別法要」に行ってきた
 
事前に渡されていた案内をよく読んでみると
「被差別戒名物故者(もっこしゃ)精霊追善法要」
日本の仏教界で行われていた(!)文盲の人が多かった被差別部落の人の戒名に
それと分かるような差別的な戒名を付けていた問題が近年明らかになり
仏教界全体としてこれを改めていて、
差別戒名の「改名」など特に力を入れて取り組んでいる、ということは知っていた。

最初にそのことを聞いたとき、
仮にも、仏の道を歩んでるはずの僧侶達はどういう神経でそんなことを
していたのだろう?・・・何の疑問も持たなかったのだろうか?
その時点で仏弟子としてあるまじきこと、と思わなかったのか・・・と
いらだちすら覚えた

昨日はその法要に、人権団体の人達をお招きしていたようで
(来賓紹介のときに知った)たくさんの団体の代表者が来ていた。
法要の導師が過去の大きな問題を改めて謝罪し
今後は人権問題により取り組んでいきたいと挨拶した。
大きなお寺の本堂で100人近い人が一同に会し読経する姿を
お釈迦様はどんな思いで見ていただろう。

生まれたところがたまたまそうだからといって,死んで後まで差別するような
人の痛みに思いを馳せることもできなかった僧侶達・・・
おぼーさんってつくづく「修行する必要がある」人たちと思えば
彼らの存在理由もよく分かる。

男はつらいよ」の寅さんだったか・・・
大学に入った人のことを話題にしたとき
「かわいそうに、まだ勉強が足りねぇんだな、あいつは」と言っていたような覚えがある。
そんな見方とちょっと似ているかも。
大学に入ったから賢い、仏門に入ったから偉い・・・人になったことにはならない。

「お寺の奥さん」研修でも・・・全国大会のときもそうだったけど
一番の関心事は「危機感」。
以前の大会のときは「私(老後)」はどうなるの!?だったのに対し
今は「私達(お寺)」はどうなるんだろう!?と切羽詰まったものになってきた。
近所に「葬祭会館」が乱立し、檀家数の減少、寺離れしていく檀家達
収入が減っていく懸念よりも、後継者問題がどうとかよりも
お寺自体が存続の危機にあることを「寺奥」達は知っている

台所を預かる主婦としての寺奥の危機感は、おぼーさん達よりもっと
リアルで切実。
いろんな話しを聞いていて、或る意味絵空事を並べている住職達より
もっと檀家の生の声を聞き、寄り添うことの多い寺奥はその存在と同じように
仏教と現実の狭間で、ただ「困って」いる。